基礎が大事、基礎が大事とはよく聞きますけど、なんでそんなものが大事かというと、基礎がしっかりしていないと、その上にきちんと積み重なっていかないからですよね。
つまり基礎がしっかりしていないと、ピサの斜塔みたいになっちゃう。
ピサの斜塔的なものを目指すなら、「グッバイ基礎」って感じで、むしろそんなものはナイガシロにすることで、誰も到達できないようなシュールな解答を書けるかもしれない。
もちろん学力的には取り返しがつかなくなりますけど、、、。
数学の歴史でも、基礎の差がその後の発展を決定づけたものに、古代エジプトの数学と古代ギリシャの数学があります。
古代エジプトの数学書に『リンド・パピルス』というのがあるのですが、これには遺産の分割方法、土地の測量方法など問題とその解法がセットなったものが全部で87問掲載されています(『数学は言葉』新井紀子著より)。ところがこの『リンド・パピルス』には定義はいっさい書かれていません(同)。その中に書かれている、たとえば『キュービット』とかいうものが何なのかが全く説明されていないので、応用することができないのです。
単純に言ってしまえば、これら87の問題についての解決方法を知ることは出来るけれど、問題を解く上での根本的な論理は学べないわけです。
みなさんもよく知っているように、「たくさん解法を知っている人」は「論理的な人」にいつか追い越されてしまいます(同)。
それに対して古代ギリシャの数学書『原論』は「点とは部分をもたないものである」から始まっています。
ちなみにその次は「線には幅は無く長さがある」です。
その次は「線の端は点である」。
ちょっと苦笑いしたくなりますよね。
これは何をやっているかというと、根本的なところまで突き詰めて、1から定義付けているのです。
たとえば絵を描こうと思ったときに、筆がすごく平たい大きなハケみたいだったら、かなり大雑把なものしか描けないですよね。
反対に細い筆であるほど緻密で複雑な絵を描くことができる。
つまりは、何でも書くことが可能になるわけですね。
これと似ているかもしれません。
古代ギリシャの数学は、この後数十年のうちにそれ以前の三千年ほどの数学の歴史を凌駕する勢いで発達してしまうのです。
それはまどろっこしいまでに厳密性を追及する「定義」と「証明」というスタイルによってもたらされたということなのです(同)。
まったく同じ原理で、思考もただ重ねるだけでは高みに到達することはできないのです。複雑なことを考えるには、最初から複雑で多様なことを考えてみてもだめなのです。複雑なことを考えるには、ごく単純なことをごく当たり前な方法でひとつずつ積み重ねる以外に方法がないのです(同)。
これは数学を勉強する上での正しい取り組み方とも言えます。
当たり前ですが、基礎を積み重ねることでより高度な問題を解けるようになるわけです。
ところで、反対に基礎がガタガタの状態で高度な問題を突き付けられたらどうでしょうか?
テストや授業の勉強をしなければならない場合、学力が伴っていないと日常的に起こり得るケースかもしれません。
ついついその解法だけを、何となく真似るだけでやり過ごしてしまう、、、なんてことはあってはいけせんよね。
それはつまり『リンド・パピルス』状態です。
汎用性がないので、遠くないうちに限界が来てしまいます。
面倒くさくても「そもそも○○とは何だったか」と曖昧なものはきちんとクリアにしていく取り組み方をすることで、その上にいくらでも積み重ねることが可能になるのです。
そして、その取り組み方の差が、いつしか決定的な学力差を生むことは、簡単に想像できそうです。
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